これは、二十四年後の東庄町の話です。
書きたかったことは、ひとつだけでした。
この町で生まれた子どもが、この町を好きでいられるようにしたい。
道路も、電気も、工場も、そのための手段でしかありません。
はじめに、道が変わった。
東西に、国道三五六号のバイパスが通った。銚子まで一直線に抜ける。着工は二〇二四年で、起点は東庄町新宿だった。完成までに十年近くかかっている。町の人は、その工事を毎日、通りがかりに見ていた。
南北には、高速道路が下りてきた。潮来から鉾田までが二〇二六年度に開通し、そのあと、鹿嶋と神栖へ向かう支線が波崎の工業地帯まで届いた。もともと、この高速道路は鹿嶋を終点とする計画だった。半世紀遅れて、当初の図面に戻ったことになる。
川を渡る道は、前からある。逆水門の上を、鹿島の工場へ通う人と、買い物へ行く人が、毎日渡っていく。対岸とは、ずっと繋がっていた。足りなかったのは橋ではなく、渡った先の用事のほうだった。
そこへ、高速が届いた。
東の海へ、西の空港へ、北の工業地帯へ、南の九十九里へ。四つの方向が、この町で交わるようになった。
二十数年前、ある男が「通過点は稼げない、交差点は稼げる」と書いている。当時それは比喩だった。いまは、ただの地図の説明だ。
道が変わったのと同じころ、西の空港が大きくなった。
二〇二九年、成田に三本目の滑走路ができた。もう一本が延ばされ、敷地は千二百ヘクタールから二千三百ヘクタールへ、ほぼ倍になった。年間の発着回数は五十万回に増え、三つあったターミナルは一つに集約された。
空港が倍になれば、そこで働く人も倍に近づく。
住むところが、足りなくなった。
空港の周りはとうに家で埋まっていて、新しい土地はなかった。だから人は外側へ広がっていった。通勤に三十分、四十分かけることが、当たり前になった。東庄は、成田から三十キロ。かつて、それは「遠い」を意味する数字だった。
荷物も外へ出た。空港の脇に置ける倉庫の数には限りがある。増えた荷物は、どこかで捌かなければならない。高速と幹線が交わるところに、順に倉庫が建っていった。
そして、人が来るようになった。乗り継ぎの半日で、田んぼを見に来る人がいる。飛行機を降りて、一時間後には稲の匂いの中にいる。
世界の玄関から、いちばん近い本物の田園。
かつて、誰もそれを価値だと思っていなかった。空港の近くは通り過ぎる場所で、田んぼは「何もない」の言い換えだった。
道と空港が変わって、外から人と荷物が来るようになった。
そのとき、この町が出せるものは土地しかなかった。
ただ、ちょうど同じころ、田んぼのほうにも期限が来ていた。
低地の水田の下には、暗渠が入っている。地面の下に埋めた排水の管で、これがないと田んぼは使えない。そして、埋めたものには寿命がある。
二〇二〇年代の終わりから、町じゅうで更新の時期が重なりはじめた。入れ替えるには金がかかる。続ける人がいなければ、入れ替える理由もない。 誰かが決めなくても、放っておけば田んぼは終わっていく。そういう期限だった。
だから、一枚ずつ決めた。
続ける田んぼには、紙より薄い膜を張った。 太陽の光で発電する膜で、稲の上に張っても、下の稲は育つ。日本で最初にそれを試したのは、隣町の匝瑳だった。東庄は、それを町ぜんぶに広げた最初の土地になった。米と電気の両方が入るなら、暗渠を入れ替える理由になる。
やめる田んぼは、別のものになった。 道の駅も、倉庫も、自動運転の基地も、もとは水田だ。
守るか潰すか、ではなかった。一枚ずつ、続けられるかどうかで決めただけだ。
坂を上がると、台地の畑がある。こちらは背の高い架台に、昔ながらのパネルが載っている。上で電気、下で作物。
そして、その先。台地のいちばん高いところに、低く長い建物が並んでいる。データセンターだ。
夏でも三十五度にならない土地なので、外の風をそのまま冷却に使える。それで足りないときは、利根川から水を引く。 日本でいちばん大きな川が、すぐ下を流れている。使った水は、温まって出てくる。
世界のどこかで誰かがAIに質問するたび、その処理のいくらかが、ここで動いている。
建っているのは、旧橘小学校の跡地とその周りだ。
この町では、五つの小学校が同じ日に閉じた。 子どもが減って、一つに統合されたからだ。跡地が五か所、いっぺんに空いた。 しばらくは、草を刈るだけの場所だった。
水田と畑で作った電気は、坂を上がって、その建物へ送られている。
米が穫れる。電気が生まれる。その電気で、地球の裏側の誰かの問いに答えが返る。同じ町の、下と上で、三つのことが同時に起きている。
そして、電気を売る側も買う側も、同じ町にいる。だから電気の値段を、遠くの会社と交渉するのではなく、町の中で話し合って決められる。
これがいちばん大きかった、と後になって言う人が多い。
データセンターの隣には、もっと前からそこにあったものがある。
東洋合成工業が、台地の上の東庄工業団地に、大きく構えている。
煙突はない。炎も、轟音もない。白い建物と、タンクと、静かな配管が、広い敷地に並んでいる。作っているのは、半導体を作るのに要る感光材だ。この分野で世界の上位にいる会社の主力工場が、この台地の上にある。
その周りに、会社が増えた。材料を扱う会社、分析する会社、装置を直す会社、次の材料を試す会社。団地は、広がった。
坂を下りれば水田で、坂を上がれば先端化学だ。
白衣の技術者が、昼に道の駅で飯を食う。同じテーブルの隣で、農家がコーヒーを飲んでいる。
もっとも、この町に食べる場所は、昔から多くない。 農家と技術者は、二十数年前から同じ蕎麦屋で、同じ蕎麦を食べていた。隣に座っていても、話すことがなかっただけだ。
いまは、話す用事がある。
データセンターは、動かすと熱が出る。
冷やすのに使った川の水は、温まって出てくる。台地の上の建物は、一日じゅうそれを出し続けている。かつて、こういうものは捨てるものだった。 外へ逃がすために、わざわざ電気を使って冷やしていた。
いまは、その温かい水が、同じ台地の上を少しだけ下って運ばれていく。旧橘小学校の跡地から、東庄病院までは目と鼻の先だ。
ひとつめは、プールと風呂になった。
東庄病院と健康福祉施設のある一角に、温水プールと入浴施設が建った。敷地を広げて、続きのように建てた。わざわざ別の場所を探さなかった。 具合の悪い人も、元気な人も、同じ場所に来ればいいからだ。
かつて、この町に屋内プールはなかった。子どもは夏の数週間しか泳げなかった。いまは冬でも泳いでいる。
朝と夕方には、高齢者を乗せた車が停まる。冬にいちばん人が来る。リハビリの帰りに、湯に入って帰る人がいる。病院の医師が「この施設ができてから、冬に運ばれてくる人が減った」と言っていた。因果関係が証明されたわけではない。
同じ湯で、子どもが泳ぎ、年寄りが温まっている。
ふたつめは、水槽になった。
すぐ隣に石出堰がある。その水を引いて、陸上養殖の施設が並んでいる。うなぎがいる。
魚を育てるのに、いちばん金がかかるのは水温を保つことだ。その一番かかるところが、隣からタダで来る。
やっているのは、利根川の漁協だ。もともと、獲る量を決めるのも、稚魚を放すのも、昔からこの人たちの仕事だった。育てるのは、その延長でしかない。
川の水は年々あたたかくなり、獲れるものが変わった。それでも、陸のぶんは獲れる。
みっつめは、その養殖に使った水だ。
魚を育てた水には、餌の残りと糞から出た養分が溶けている。かつては、きれいにしてから捨てていた。
いまは、そのまま用水路へ流している。石出堰の水は、もともと用水路を通って水田へ行く。 その流れに、乗せるだけでよかった。
新しい管は、一本も引いていない。
養分を含んだ水が、田んぼへ届く。その田んぼの上には、発電する膜が張られている。
はじめから設計したわけではない。隣にあったから繋いだ、というだけの話だ。
電気は坂を上がり、水は坂を下りる。
川から引いた水で計算機を冷やし、温まった水で子どもが泳ぎ、魚が育つ。使い終わった水は用水路を下って、低地の田んぼへ落ちていく。その田んぼの上で作られた電気が、また坂を上がっていく。
川から借りて、川へ返している。 借りたときより少しだけ温かく、少しだけ栄養を含んで。
捨てていた熱で、子どもが泳ぐ。捨てていた水で、米が実る。
そして ── 子どもが減って閉じた学校の跡地が、いま、子どもの泳ぐ場所を温めている。
かつて、この町の子どもは、冬に泳ぐ場所を持っていなかった。
これだけのものが同じ町にあると、訪れた人は、まずどこへ行けばいいのか分からない。
だから、入口を作った。道の駅である。
建っているのは、新宿から石出港へ向かう利根川沿い、バイパスの脇だ。 ここも、もとは水田だった。暗渠の更新時期を迎えて、続ける人のいなくなった一角である。
窓の外には、続けることにした田んぼが広がっている。その上には発電する膜が張られている。受付の窓から、この町の稼ぎが見えている。
二十数年前の提言に「道の駅は受付である」と書いてある。書いた本人も、ここまで文字どおりになるとは思っていなかったはずだ。
入口は、コンビニの看板だ。
ただし、よそのコンビニとは違う。
まず、棚の三分の一が、この町のもので埋まっている。農家が前の日の夕方に「明日これだけ出せる」と入力すると、翌朝には値札まで出ている。朝採れが、その日の昼には棚にある。
そして、置いていないものも買える。
裏が物流の倉庫だからだ。棚にない品は、その場で頼めば翌朝に届く。取り寄せに一週間かかっていた時代が嘘のようだ。店の広さは知れているのに、買えるものの数だけは、東京と変わらない。
薬がある。処方箋も受けられる。振込ができる。役場の証明書が出る。宅配便を出せるし、受け取れる。ガソリンと充電がある。車の免許を返した人のために、注文した品を家まで運ぶ車が、毎日出ていく。
その車には、運転手が乗っていない。基地が、すぐ隣にあるからだ。
夜も開いている。深夜は誰もいない。入口で顔をかざせば、勝手に開く。
四十年前、この町の商店は一軒ずつ消えていった。買い物のために、車で三十分かけて隣の市まで出る人がいた。免許を返したら、暮らせない町だった。
いま、この町は日本でいちばん買い物に困らない田舎を名乗っている。名乗っているだけで、誰かが認めたわけではない。それでも、住んでいる人はだいたい同意している。
奥に、町営のレストランがある。
献立を組んだのは、東京で長く飲食を見てきた人だった。厨房を任されたのは、その十数年前に移住してきて、廃校の家庭科室で日替わりの店番から始めた人だ。豚も、米も、牛乳も、野菜も、半径五キロから来る。町営にしたのは儲けるためではない。この町の食べ方を決める場所が、どこかに要った。
川へ出る人は、ここから出る。
ネイチャービジターセンターが併設されている。川の生きものの展示があり、ガイドが常駐し、装備が借りられる。朝のツアーはここに集合して、河口へ向かう。
裏手には、物流の倉庫が並んでいる。
来客用の駐車場と、倉庫のトラックヤードは、壁一枚で隣り合っている。同じ道路を使い、同じ電気を使い、同じ町の人が働く。朝いちばんに動くのはこちらだ。無人の配送車が出ていき、屋上からドローンが上がる。銚子の漁港まで七分、鹿島の港まで十二分、成田までは三十分。
その隣が、自動運転の基地になっている。
配送車が戻ってきて、充電し、また出ていく。整備をしているのは四人で、そのうち三人はこの町で育った。かつて、この町の子どもが就ける技術職は、ほとんどなかった。
そして、子どもと親のための場所がある。
これは最初の図面から入っていた。二十数年前の提言に「子育て支援センターに隣接して建てる」と書いてある。買い物と、食事と、遊び場と、預ける場所が、一か所にある。車を一度停めれば、全部が済む。雨の日は、ここが町の公園になる。
いま、この町でいちばん人がいる場所は、役場でも学校でもない。ここだ。
ひとつ、後から気づいたことがある。
動くものは下に、動かないものは上に。
人と荷物が行き来する道の駅と倉庫は、川沿いの平らなところにある。工場と、データセンターと、病院は、台地の上にある。水が出たときに止まってはいけないものが、みんな高いところにいる。
誰かがそう決めたわけではない。それぞれが都合のいい場所を選んだら、順にそうなった。
建てるのは需要を実証した後、語るのは今から。提言にそう書いてあった。順番は、守られた。
道の駅に並ぶもののうち、いくつかは、町の外へも出ていった。
この町の牛乳には、名前がついている。作っているのは世界でいちばん大きな食品会社のひとつで、量からいえばこの町の分など誤差のようなものだ。それでも続いているのは、その会社が「どこの誰が作ったか」を言えることに価値を置いていたからで、たまたまこの町は、それを言える規模だった。
小さいことが、はじめて有利に働いた。
豚もいる。たれを作っている会社と組んで、厚く切って揚げるための味が生まれた。それは町の名物になり、いまは空港の売店にも並んでいる。
飛行機に乗る前に、この町の豚を買って帰る人がいる。 かつては、考えられなかったことだ。
外へ出ていくものがある一方で、ここへ来ないと見られないものもある。
利根川の岸に、日本でも最大級のヨシ原が広がっている。
昔からあった。ただ、長いあいだ「何もない場所」として扱われていた。
ヨシ原は、放っておくと消える。刈らなければ枯れたヨシが積もり、灌木が入り、いずれ藪になる。人が手を入れ続けてきたから、あの景色が残っていた。 刈る人がいなくなれば、失われる。
そのことに気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
いま、ヨシは毎年刈られている。刈ったものは、屋根を葺くのに使われたり、堆肥になったりする。守るために刈るのではない。使うから、刈り続けられる。
そのヨシ原が、生きものを育てている。
鳥が巣を作る。春と秋には、渡りの途中の群れが降りる。そして水の中では、稚魚が育っている。ヨシの根の間は、大きな魚が入ってこられない。弱いものが育つ場所になっている。
だから、その先に大きな魚がいる。
利根川の河口は、昔からシーバス釣りの聖地と呼ばれてきた。釣り人が来るのは、ヨシ原があるからだ。 長いあいだ、その二つが繋がっていることを、誰も口に出して言わなかった。
河口には、白い観測棟が建っている。春と秋、ここを渡っていく鳥の数は、世界で数えるときの基準のひとつになっている。カムチャツカから来た鳥が羽を休め、オーストラリアへ向かう。研究者が常駐していて、その半分は外国から来ている。子どもは町の学校に通っている。
道の駅のビジターセンターが入口で、現場はここだ。
隣に、水の生きものを見せる施設がある。海の生きものではない。利根川の、淡水の、地味なものばかりだ。設計に関わったのは、海のない街に水族館を作った経験のある人だった。その人が最初に言ったのは、「派手なものを入れないでください」だった。
朝は川に出る。カヤック、鳥、釣り。守り方まで含めて商品にする、という決まりは、最初の年から一度も変わっていない。
理由はひとつだ。壊してしまえば、二度と売れない。
二〇四〇年代のなかば、この一帯は世界自然遺産に登録された。
申請から登録まで、二十年近くかかっている。途中で一度、書類が戻ってきた。「人の手が入りすぎている」というのが、そのときの理由だった。
町は、書き直した。
人の手が入っているから、残っている。 毎年ヨシを刈る人がいて、刈ったものを使う人がいて、だから百年後もこの景色がある。手を引いた瞬間に、ここは藪になる ── そう書いた。
それが通るまでに、さらに何年かかかっている。
登録されて、劇的に何かが変わったわけではない。入る人の数に決まりができ、案内する人に資格が要るようになった。釣りは続いている。カヤックも出ている。ヨシは、今年も刈られた。
ただ、子どもが「うちの町の川は世界遺産だ」と言えるようになった。
それだけのために、二十年かけたようなものだ。
自然と同じくらい古くから、この町にはもうひとつの流れがある。
始まりは、二〇一九年だった。
一人の美術家が、大きな作品を運んできた。「そこで生えている」という題の、東京には置いておけない大きさのものだった。
廃校になった小学校の教室が、空いていた。そこへ入れた。倉庫として使わせてもらう代わりに、この学校で展示する。 それが、最初の取り決めだった。
置き場に困っていた人と、空いている場所を持っていた町。それだけの交換だった。
美術館を建てたわけではない。倉庫が、そのまま美術館になった。
そして、話が伝わった。東京で大きな作品を作る人は、たいてい同じ問題を抱えている。作ったあと、置く場所がない。
一人、また一人と、作品が預けられていった。
二〇二六年、別の作家が図工室に一か月住んで、そこで制作した。その年の秋にもう一人が移り住み、次の年に二人になった。預ける場所だったところが、作る場所になった。
誰も大きな計画は立てていない。一人ずつ増えただけだ。
いま、校舎には大きな作品が収まっている。そして町に散らばる家々が、そのまま作品になっている。壁を抜いた家。床に水を張った家。庭ごと草に還した家。二十軒を超えたあたりから、地図が作られるようになった。
ヴェネチアの帰りに寄る作家がいる。カッセルの前に来る作家がいる。世界の展覧会をまわる道すじの上に、東庄が入った。
美術大学の教授たちが、いまも毎年来る。作品を見に来て、そのまま自分の学生を連れてくる人もいる。この町には、置ける場所と、置いていい理由がある。 それだけのことだった。
外から人が来る理由が、もうひとつある。
撮影だ。
廃校は、撮影に向いている。教室があり、廊下があり、体育館があり、屋上がある。そして校庭に、大型のトラックが直に乗り入れられる。都心から車で九十分で、これだけ揃う場所は多くない。
始まりは、問い合わせが月に何件か入るところからだった。断らずに受けた。一日貸して、立ち会って、掃除をして、また次を受けた。それを二十年以上続けている。
いまでは、年に何十本の画面にこの町が映っている。ドラマ、映画、コマーシャル、ミュージックビデオ。ただし、映っていることに、町の人はたいてい気づいていない。 学校の廊下も、川べりも、田んぼの一本道も、たいていは名前を伏せて使われるからだ。
それでも、たまに気づく。
子どもが、テレビで自分の学校を見つける。「ここ、うちの体育館だ」と言う。それだけのことが、たぶん少し効いている。
撮影が来ると、人が食べ、泊まり、車を停める。四十人、五十人が一日いれば、それだけで町にいくらか落ちる。大きな産業ではない。ただ、途切れない。
そして、撮影で来た人の何人かが、あとで別の用事で戻ってくる。画面に映ることは、宣伝ではなく、入口だった。
来る人が増えれば、泊まる場所が要る。
空き家を直した家。作家が使っていない期間の住居。廃校の宿泊棟。そして台地の上に、都市の会員が週末に来る施設が建った。
ゴルフ場は、昔からこの町にあった。
毎年、何万人という人が、この町へ来ていた。 それなのに、町の人はその誰にも会ったことがなかった。
客は朝に東京を出て、車でまっすぐコースへ入る。回って、風呂に入って、夕方に帰る。町の店で何かを買うことも、誰かと話すこともない。 ゲートを出たら、あとは幹線まで一直線だ。
町の人のほうも、コースには入らない。だから、何万人が来ていても、町にとってはいないのと同じだった。
いまは、朝のうちに川へ出て、昼にコースを回り、夜は豚を食べて泊まっていく。
通り過ぎていたものが、一日の中に入った。 それだけの違いだ。そして、それだけの違いに二十年以上かかった。
これだけの人が出入りしていて、それでも役場の職員は二十数年で半分になった。
窓口に列がない。住民票も、転入も、補助金の申請も、たいてい家で終わる。それで回っているのは、問い合わせの一次対応と、書類の下ごしらえを、機械がやっているからだ。
そのぶん、職員は外に出ている。今日は二人が、企業の担当者と現地を回っている。
人手が足りないから機械を入れたのであって、機械のために人を減らしたのではない。順番が逆にならなかったのは、たまたま運がよかったのだと思う。
そして、ここからが本題だ。
町の中学生は、五十人を切っている。
この町に、高校はない。 中学を出たら、電車かバスで銚子か佐原へ通う。それは昔から変わっていないし、これからも変わらないだろう。十五歳になれば、みんな一度は町の外へ出る。
変わったのは、出ていったあとに帰ってくる理由があるかどうか、そちらのほうだ。
そしてもうひとつ、変わったことがある。
この町の教育委員会には、民間の教育会社の人間が入っている。
委員として、席がある。外から呼ばれた助言者ではなく、決める側にいる。
そうなった理由は、単純だった。新しい教え方を試すには、試させてくれる場所が要る。 会社の側は、実証の場を探していた。町の側は、塾も来ない、教える人も足りないという状態を、どうにかしたかった。
利害が、たまたま同じ方向を向いていた。
いま、この町では新しい授業のかたちが、まず試される。うまくいけば全国へ出ていく。うまくいかなければ、町の中で止まる。試すのも、やめるのも、同じ部屋で決まる。
子どもは五十人しかいない。だから、一人ひとりに合わせて変えられる。 学年で区切らない時間があり、得意なところだけ先へ進む子がいる。四十人学級では、絶対にできなかったことだ。
規模が小さいことは、この一点では圧倒的に有利だった。
その五十人が、毎年、世界の同じくらいの規模の町と繋がっている。人口が減っていく町どうしで、何をどう解いたかを交換する。使う言語は英語で、テーマは毎年変わる。今年は水だった。
「うちの町では、田んぼの上で電気を作っています」
そう説明する十四歳の顔を見て、画面の向こうの町が驚く。その驚きを、この子は毎年見ている。
自分の住んでいる場所が、他所から見ると面白いらしい ── それを十四歳で知っていることの意味は、たぶん、大人が思っているより大きい。
工場の技術者が理科を教えに来る。作家が図工を教える。ガイドが川を教える。漁協の人が水槽の前で話をする。この町の大人は、全員が半分だけ先生になった。
教え方は、たいてい下手だ。話が長い人もいるし、専門的すぎて誰も分からない日もある。それでも、子どもは聞いている。目の前の大人が、本当にそれで飯を食っているからだ。
子どもは、大人が本気で働いているところを見て育つ。それが、この町にできる最大の教育だった。
そして、進路の面談で、教師が「この町でできる仕事」を並べられるようになった。二十数年前、その一覧は短かった。
ここまで積み上がったころ、この町のやり方は、町の名前で呼ばれるようになった。
東庄型。
一つの町の同じ土地から、食料と、電気と、計算と、文化を、同時に取り出す。
分けなかった、というだけの話だ。長いあいだ、分けることが近代化と呼ばれてきた。工場を建てれば畑は消え、畑を守れば工場は来なかった。どちらかを選ばされ続けて、多くの町が、選んだ末に何も残らなかった。
東庄は、その前提のほうが間違っていたことを示した町として記憶されている。
やがて、東庄型は町を出た。
人口が減り、農地が余り、電気が要る。同じ条件の土地は、日本にいくらでもあった。そして日本の外にも、同じ順番で人口が減り始めた国がいくつもあった。
韓国の郡から、タイの県から、ベトナムの省から、視察が来る。彼らが見に来るのは技術ではない。技術はどこでも買える。
彼らが見に来るのは、この町が、どうやって決めたかだ。
農家と、企業と、役場と、議会と、漁協と、学校が、同じ部屋で十年分の話をした。その最初の一回がいつで、誰が呼んで、何から始めたのか。それを聞きに来る。
大学がそれを研究にし、論文になり、教科書に載った。この町の名前を、日本人より外国の研究者のほうがよく知っている、という時期が一時期あった。
ここまで書いておいて、正直に言っておく。
人口は増えていない。
二〇二六年に一万二千人だった。いまは七千人を切っている。推計より、少しだけましだったという程度だ。
高齢化率は上がり続けている。空き家も、全部が作品になったわけではない。壊れたまま残っている家のほうが、まだ多い。畑も、続けられなくなった人の分だけ、静かに草に埋もれている。
豊かになったわけではない。
ただ、この町で暮らす人は、自分の町を説明できるようになった。何をやっている町なのか、一文で言える。
かつて、それができなかった。「何もない町です」と言うのが、いちばん無難な答えだった。
すべては、二〇二六年の夏に始まった。
八月のある日、廃校になった小学校の一室で、東京から来た二人と、この町で場所を運営していた男が、一時間だけ話をした。
その日、何も決まらなかった。契約も、約束も、金額も、何ひとつ。
男は翌日、町のことを書いた文章を送った。道路が変わること。工場に投資が続いていること。台地の上は揺れにくく、夏でも暑くならないこと。そして、人が減っているのに住むところが足りないこと。
文章の最後に、こう書いてあった。
いま何かを決めていただく必要は、まったくありません。
東庄という町があって、こんなことを考えている人間がいる ── それだけ頭の片隅に置いていただけたら、この資料は役目を果たしています。
二人はそれを、社内の三つの部署に回した。
そこから、二十四年かかった。
中学三年の子が、進路の紙にこう書いた。
「一度は出るけど、たぶん帰ってくる。ここでやれることがあるので。」
二十数年前、同じ紙に「早く出たい」と書いていた子が、いまカヤックのガイドをしている。
道路も、電気も、工場も、そのためにあった。
🌙 これは妄想です。